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神吉 晴夫 氏より (書籍「カッパ兵法」より)

このページは、書籍「カッパ兵法」から、教え学んだこと、共感したこと、気づいたことなどを取り上げ転載しています。  


・光文社は破産寸前の無名出版社である。宣伝費がない。読者に信用がない。どうしたら、多くの人にこの本をよさを伝えられるか。なにかやれねばならぬ、


----と考えたすえ、他人の力を活用する新手の宣伝法を発見した。それは寄贈作戦である。そのころ、まだ、どこの出版社もやっていなかった。


さっそく、「日本紳士録」やら「文化人名簿」やらから、この本を読んで評判を立ててくれそうな有名な人、その人のことばが世間の読者欲を掻き立てそうな人、三百人をえらんだ。


そのかたがたへ、謹呈の挨拶文をつけて、刷りあがった「少年期」を送った。初版五千部、そのうち、三百部が無償贈呈である。


・徹底的な批判記事、悪口記事で評判をとっていた朝日新聞のコラム「青眼・白眼」が、こんどはじめて、無条件でベタほめしたのである。効果満点----はたして「少年期」を爆発的ななブームをおこしてしまった。


・読者に知らせる以前に、まず販売人(取次店)に宣伝してみたわけだ。これまでは、できた本を、機械的に出版社から読者へ取次ぐことしかしてこなかった販売人に、商品(本)の内容をよく知ってもらい、よく売ってもらおうとしたのである。今日の出版界の動脈的機構である取次店への殴りこみPR作戦だったのだ。


・書き直してもらう。私が納得できなくて、どうしてたくさんの光文社の読者を納得させることができるだろうか、----これが私の本音である。


・田舎まんじゅうと大根おろし、それにレモンは好きだという清張さんは、孤独な下積み時代を、<故郷>を、忘れようとしないのである。※清張とは、松本清張氏。


・「成功は君のものだ―セールスマン時代の商魂(遠藤 健一著)」は、セールス、 つまり、ものを売る技術について書かれた本である。


・「アイディア----着眼・立案・成功への秘法(遠藤 健一著)」は初版四万部だった。


・よい内容の本とすぐれた広告とが結びつくと、一夜にして、ベストセラーが生まれることを私はこれまでの経験で知っていた。(中略)私は、「経営学入門」のために「入社試験の問題の六割は経営学の問題である」というキャッチコピーをつくった。


・岩田一男さんの「英語に強くなる本」は、パンのように、売れた。発売わずか七十日あまりで百万部を突破するという、戦後の日本出版界の記録的な大ベストセラーだ。

この「英語に強くなる本」を企画し出版した私だが、その昔、中学一学期で英語の成績は、十点満点の三点。落第点を下まわる、英語に弱い少年だった。


・辞書を読むたのしさを教えてくれた山田宇三郎先生は、私の一生の通じて何人かのある恩人のひとりである。


・消費者の眠っている欲望をめざめさせ、「あなたが望んでいたのは、この商品でしょう?」と、消費者に呼びかける広告というものに、私は目を開かれたのである。


・岩波新書が、いわば、日本における新書版シリーズの元祖だということは、だれ一人反対するものはなかろうが、そのころ、私の心には、岩波新書のイメージがふかくわだかまって去らなかった。


・昭和二十九年の秋の出版界は、新書版一色に塗りつぶされそうな気配だった。


・早くから私は、宣伝部を社長室直属にしたいという夢をもっているほどである。


・納得しない商品を市場に出すことは、消費者を裏切るだけでなく、自分を汚すことだ。


・社長の野間清治さんは、一種の広告マニアだった。(中略)チンドン屋を出版広告に使ったのも野間清治さんがはじめてだった。


・このPRということと切っても切れぬ因縁があるフランクリン・ルーズベルト大統領が、こういったことがある。「もし、私が生まれかわって、人生をもう一度やるなおすことができたら、まず最初に私自身の履歴を広告するだろう。」


・PRというものの根本は、ほかの人といっしょに生きているという連帯感である。家族、会社の仲間、友人、読者、その他いろいろの人と意思を通わせあう、コミュニケーションをもつということだ。


・人間的共感、人間的コミュニケーションがふんだんにある集団には、偉大な果実がみのる。家的から国家まで、共感の通いあわない、凍りついた、つめたい人間関係には、アカやよごれが沈殿しやすい。会社だって、同じことだ。


・私の広告作法には、三つの源泉がある。
学生時代に学んだ、フランス流の人間の心のつかみ方、これが一つと、野間清治さん直伝の「大衆の言葉で大衆に話しかける編集の理念」、それにアメリカの新聞や雑誌から独習した「広告主が、大衆に呼びかける宣伝の方法」----この三つである。これらが織りあわされて、神吉流の広告作法ができあがったと思っている。


・新刊の本は、どんなに良くても、発売から数日で十万部売れるとということは、まず。ない。(中略)本の性格とか時の情勢によってそれぞれちがう。ここに出版の企画・宣伝・販売のむずかしさがある。


・全国四百軒のモニター小売店を組織して、進行中の企画を流し、その反響を聞き、部数決定のデータとすることをはじめた。

つぎに、新宿の紀伊国屋書店、銀座の近藤書店、東京駅の栄松堂、新橋の美松書房、神田の三省堂、上野の明正堂をはじめ、都内の書店二十軒に依頼し、発売日から一週間以内に、どんなカッパの本がどれだけ売れたかについて、正確な報告をもらう。

その結果に、ある数字を加えたり、掛けたりすると、3ケ月から半年後までに必要な部数が、正しく算出されるのである。あっぱれ見事なものというほかない。


・こっちが景気のいいときは、みなさんがチヤホヤしてくださる。落ち目になったら、だれも寄りつかなくなる。それを腹の底にちゃんとおさめておかぬとな。


・東京にはすべてがあります。東京の読者をつかめば、全国の読者をつかむことができます。


・コンパクト編集というのは、編集部を、「カッパ・ブックス」をはじめ、「カッパ・ノベルス」、「カッパ・ビジネス」、「カッパ・フェミア」、「カッパ・ビブリア」、「カッパ・ジュニア」というカッパの本の六つの集団、それに「宝石」と「別冊宝石」、さらに「少年」のほか、「女性自身」とは別に、別冊「デラックス女性自身」というぐあいに仕事の性質に応じて細分し、編集スタッフも小は四人か五人、大も十人前後として、それぞれに編集長をおく体制だ。


・昭和二年、「天下に秀才を求む」という朝日新聞の全三段広告による社員募集に応じて、大日本雄弁会講談社に入社した。


・敗戦直後、光文社の創立に参画。三十六年、社長に就任して今日にいたっている。
      
     
             
●書籍「カッパ兵法」より
神吉 晴夫 著
華書房 (1966年12月初版)
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