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藤原 智美 氏 書籍『文は一行目から書かなくていい』より

このページは、書籍『文は一行目から書かなくていい』(藤原 智美 著)から、良かったこと、共感したこと、気づいたことなどを取り上げ紹介しています。


・言葉の選択や修飾は演出そのもの。そうした積み重ねが文章になるのだから、原理的に「文章にはウソや演出が含まれる。あるいは隠されている」といえます。


・NHKのテレビ番組『プロジェクトX~挑戦者たち~』(中略)あの番組はノンフィクションであり、事実に基づいてつくられています。しかし、事実を羅列するだけではない。つくる過程で事実と事実の隙間からドラマをつむぎ、壮大な成長物語に仕立て上げているのです。


・私がエッセイを書くために「カリブの海賊」のボートに乗るとしたら、前のほうで大砲がドカンと鳴ってお客さんの視線が前方に集まる瞬間、あえて後ろを振り返ります。(中略)仕掛けを動かすための歯車や配線など(中略)


表から見えて夢の世界と、それを裏側で支える機械の世界。この二つのギャップを切り口にして、現代人の人工的につくられる感動を風刺してみたり、華やかな世界を支える裏方の苦労に焦点を当てたエッセイが書けるかもしれない。


少なくても「東京ディズニーランドは楽しい」より、読み手の心に届くものを書けるはずです。(中略)


このように多くの人が一定の方向を向いている現象があれば、違う切り口を探る絶好のチャンスです。あえて大勢の人とは違う切り口で考えることを自分に課せばいいのです。


・誰からも文句の出ない文章は、誰からも賛同が得られない文章だと思ったほうがいい。仮に書けたとしても、おそらく中身の薄い文章になって、過半数の賛成も得られないでしょう。

説得力のある文章を書くためには、誰に向けて書くのか、つまり読み手の想定が大切です。

・一人を納得させられる文章というのは、結果的にはほかの人の心まで動かしてしまうものです。幅広く賛同を得ようとして丸くなってしまった文章より、けっきょくは多くの支持を集められるでしょう。


・雑誌で、あるクルマの運転席について「思いのほか広かった」と書いた原稿を編集者に見せたところ、「これではどの程度の広さなのかが読者に伝わらないよ。安易に形容詞を使っちゃダメだ」と厳しい指導を受けました。広い、熱い、きれい、おいしい、すごい・・・・・・。(中略)


ポイントは自分一人の主観ではなく、多くの人と共有できる客観的な物差しを使うことでしょう。たとえば「一四インチのモニターが二つ置ける広さだった」「新型新幹線と同じくらい速い」というように身近にあるものに置きかえてみます。


・形容詞の使い方を意識する(中略)

「おいしい」という形容詞ばかりに頼っていたら、いつまでも前に進めません。最初に浮かんだ形容詞から、あえて二歩、三歩と踏み込んで言葉を捜していくことで、表現力は豊かになっていく


・『暴走老人』(文春文庫)というノンフィクションを書いたとき、予想以上の反響があり、(中略)


なかでも多かったのは、「そういえば最近、おかしな年寄りが多いと思っていた」という声。(中略)


書き手のなかでに眠っている感覚や想いは言葉や文章によって命を吹き込まれ、読み手へと伝わり、そこで「化学反応」を起こすということでしょうか。


・最初の一行が書けないならほかのところから書き始めればいい。文章に、最初から順番通りに書かなくてはいけないルールはないのですから。


・構成を固めてから書くべきか、書いてから構成を考えるか。私の場合は後者です。(中略)人間の思考というのは無秩序で断片的なものです。起承転結の「起」がないのに「結」があったり。なぜか「転」だけがぼんやり見えることもあります。


・「全然よかった」は正しいか(中略)

「全然」は通常、物事を否定するときの副詞として使います。「全然~ない」のように否定表現とセットで使います。「全然平気」「全然おいしかった」のように肯定表現で受けるのは誤用です。


・たとえば「だらしない」は、江戸時代まで「しだらない」でした。「しだり」は「しまり」という意味で、現在も「不しだら」という表現に残っています。一方、「しだらない」は、江戸時代に音節変化が起きて「だらしない」になった。「全然」という表現も、今後は誤用のほうが普及する可能性があります。ただし、書き手としてこの言葉を使う場合はどうでしょうか。(中略)やはり避けたほうがよい表現に思えます。


・読点の打ち方は身体的、生理的なものであり、どれが自分によって心地よいかが大事です。(中略)私はつねに、自分のリズムを意識しながら文章を書くようにしています。リズムが無秩序な文章は、やはり読みづらいものです。


・表現は、短いから簡単にできるというものではありません。むしろその逆で、短く伝えなくてはいけないときほど手間がかかるものです。


・文章力とは、文章を「書く力」だけを指すのではありません。実は書く力と同じくらい、文章を「削る力」が重要です。(中略)逆説の「しかし」「でも」など以外の接続詞はなくても意味が通じる場合が多いので、思い切って削ります。


・売上が落ちていることがわかっているのに、それについて社長に質問しなければならないとします。(中略)私ならこう聞きます。

「競合のA社は大変厳しい決算だと聞いています。御社はいかがですか?」

業績の悪い他社を引き合いに出すことで、相手も答えやすくなると思うからです。

あるいは次のように聞いてもいい。

「今年は厳しいと聞いています。来期に向けて、どのような戦略をおもちですか?」

これに対する答えは前向きなものが予想されます。


・正論だからといって説得力があるわけではありません。むしろ正論を振りかざした文章からは、中身の薄さや底の浅さを感じることのほうが多いものです。なぜ共感を呼ばないのか。それはおそらく自分で文章を綴っていないからだと思います。


・「みんながこういっているから乗っかっておこう」「こう書いておけばみんが共感するだろう」という落としどころが先にある文章は、そこに当てはまるようにして言葉を探すから、借り物のにおいが漂って説得力を失うのではないでしょうか。


・よい文章の条件はあえてすべてを説明せず、読み手に想像や解釈の余地を残すこと、といいました。しかし、説明文におけるよい文は違います。「これくらいならわかるはず」という勝手な思い込みを排して、誤解が生じないようにきっちり説明すること。それが条件なのです。


・文章は永遠に完成しないものである、といったら驚かれるでしょうか。(中略)私が理想としているのは、締め切りの二日前に書き上げて寝かせておき、期限の直前にもう一度だけ見直すパターンです。


・デジタル化された言葉は簡単にコピペできるということです。コピペの過程で一部だけが抜き出されたり要約されると、そこで文脈が分断されて、誤読や勘違いを誘うのです。


・書くということは、同時に考えるということです。(中略)あらかじめ課題が設定されていて、答えに向かって論理的に考えていくのではない。書くために考えるというのはもっとあいまい


・無駄を切り捨ててはいけない(中略)

直接利用できそうなアイデア探しや役立つ情報集めに汲々としていては、けっきょくダメなのです。「これは無駄」「あれは役立たない」と切り捨てていては、実は表現の幅や深みを失うことになります。


・数字は、あくまでも主張の添え物として使う程度でいい。仮に使うとしても、一つか二つか。ゴテゴテと飾りつけるのは禁物です。


・数字に頼った文章が説得力に欠けるように、図をつけてごまかしている文章も説得力がありません。図の場合も、数字と同じく、まずは文章だけで完結させて説明することを心がけるといいでしょう。


・資料の集め方(中略)

私なら専門書から入るようなことはしません。まず読むのは入門書。それで基本を押さえるまで、専門書に手をつけないようにします。なぜ入門書なのか。(中略)


入門書は木の幹で、高度な情報が詰まった専門書は枝や葉といっていいでしょう。ところが、いきなり枝や葉から入ってしまうと、それが木のどこの枝についていたものなのか、あるいは木の高さや太さはどうなのかといった全体像が、いつまでたってもつかめません。


・「伝わる」文章を書くことの秘訣を一つにまとめるとすると、それは日々の心の動きをないがしろにせず、自分の内面に目をとめて、それを言葉として残しておくことは以外にないのです。まわりくどい方法ですが、これが文章術の王道です。


・言葉というのは人を励ますこともあれば、同時にひどく傷つけてしまうこともある、危険で強い力をもった存在です。


・デジタル化された言葉や文章には力がない、人に伝わらないということはありません。デジタルでも手書きの手紙のようなアナログでも、力のある言葉とそうでない言葉があります。ただ、書くこと、言葉にたいする姿勢にあきらかな変化が訪れるということは、たしかでしょう。


●書籍『文は一行目から書かなくていい~検索、コピペ時代の文章術』より
藤原 智美 著
プレジデント社 (2011年5月初版)
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