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脇村 義太郎 氏 書籍『東西書肆街考』(岩波書店 刊)より

このページは、書籍『東西書肆街考』(脇村 義太郎 著、岩波書店 刊)から、良かったこと、共感したこと、気づいたことなどを取り上げ紹介しています。


・本屋・書林・書肆(または物の本屋)は、出版するということが第一の条件であった。しかし、本屋の意味は、厳密にいえば、印刷(掘り、摺ること)も本屋の仕事であり、販売(卸売および小売)もその仕事であった。


・中でも京都が江戸期を通じ、もっとも多数を占めていたことがわかる。(※本屋が登場したこと)(中略)京都の本屋の発達を見ると、慶長年間、京都においてはじめて私人で出版業を行なうものが出てきた。本屋新七と呼ばれるもので、彼は慶長十四年に『古文真宝』を刊行して、本邦最初の出版業者となった。


・笠井助治『近世藩校に於ける出版書の研究』昭和三十七年。


・岩波書店との直接取引は、希望書を迅速に入手できるという利点のほか、マージンの上でも若干利益があったことは間違いないが、そのほか入銀の利益もあったのではないかと思う。入銀とは江戸時代に新刊書の購買を予約し、そのため、若干予納するという意味から、予約新刊書に用いられた特殊用語であるが、明治以降は新刊書の見本を予約すれば、普通取引よりも発行所が若干割引して販売業者に渡すことに使用し、出版元は新刊書の見本と入銀帳というものをもって、注文を取って歩いた。


・昭和になって新たに生まれた京都の書肆街は、河原町である。


・思文閣は、戦後京都の古書籍業者の中でもっとも目ざましい発展をした一人であるが、しかしその急速に発展した有力な原因は、古書籍のほか古書画の仕事を手びろく取り扱ったということであろう。


・神田書肆街の神田とは普通の神田より狭い地域で、飯田橋・俎橋・雉子橋から外濠に沿って神田橋に至り、そこから神田川にかかっている昌平橋を結び、それから御茶ノ水・水道橋を経て飯田橋に至る範囲の地域をさすのである。


・江戸時代に狭い意味の「神田」に1軒も本屋がなかった原因は、神田が侍屋敷、一部の幕府直轄用地を除くほかは少数の譜代大名と旗本屋敷の用地で占められていて、商業用地でなかったということが主な原因であった


・幕府は、江戸末期になって、一ツ橋通りに蕃書調所を移したが、これが後に開成所になり、大学南校、東京開成学校を経て、東大になったもので、ここが、明治新学問の源泉ともいえるところである。


・学校に伴って、学者・学生が集まってくることとなり、さらに書物の需要の増加に伴って本屋が生まれることも当然の経過である。明治十年頃から学校街に続く表神保町の通りに教科書・参考書、その他の新古本売買を目的とした本屋がぼつぼつでき始めた。


・神田書肆街の草分けとしてみとめられるのは、有史閣という名前で始められた、江草斧太郎が一ツ橋通りに開いた古本店である。


・東京書籍出版営業者組合(中略)によれば組合員の分布は日本橋(四三%)、京橋(二一%)にもっとも多く


・明治期の東京のブックマン(出版社・取次店・新本屋あるいは古本屋)の系譜を見ると、越後出身の人々が実に多く、彼らによって東京の出版・流通が運営され支えられてきたといっても間違いでないのである。そしてその基礎となったのは、何といっても博文館と東京堂であり、大橋一族であったことは否定できない。


・明治時代を通じて東京の出版業はまだ日本橋・京橋が中心であって、神田・本郷における出版業はそれほど盛大でなかった。ことに雑誌社は神田には少なかった。


●書籍『東西書肆街考』より
脇村 義太郎 著
岩波書店 (1979年6月初版)
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