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佐野 眞一 氏 書籍『あんぽん~孫正義伝』(小学館 刊)より

このページは、書籍『あんぽん~孫正義伝』(佐野 眞一 著、小学館 刊)から、良かったこと、共感したこと、気づいたことなどを取り上げ紹介しています。


・「紙の本は三十年後にはほぼ一〇〇パーセントなくなる」という孫の持論を私は全面的に認めない。


・大竹によれば、孫正義は朝鮮部落のウンコ臭い水があふれる堀っ立て小屋の中で、膝まで水に浸かりながら、必死で勉強したという。


・高校生が“塾経営”を発想(中略)

「僕はまだ高校生なので、経営の表に出ることはできません。そこで、先生に頼みがあります。先生、塾の責任者にやっていただけませんか?」

孫は要するに、自分がオーナーをやるから、元担任教師の河東に雇われ社長になってくれないか、とスカウトしにかかったのである。


・森田塾というのは、福岡では有名な進学塾である。志望すれば誰でも入れるわけではなく、成績優秀な生徒しか入塾できない。クラスで中位だった孫の当時の成績では入塾は難しかった。(中略)


「しかし、そこであきらめないのが孫君のすごいところです。クラスで一番成績のよかった級友のお母さんが森田塾の塾長と親しいと聞いて、早速手を打つんです。そう、そのお母さんになんとか森田塾に話をつけてくれないかと、頼み込むんです。大人顔負けの行動力というか、知恵です。要するにコネで入塾しようと思ったわけです。(中略)」


・三憲の「天才」教育がなければ、孫正義という類のない経営者は生まれなかったし、正義は正義で三憲の失敗を反面教師にしてソフトバンクをここまで伸ばしてきた。


・「ええ、国籍問題もあるけれど、向こうさんには医者に嫁がせたいという気持ちがずうっとありましたからね。それで、あちらのお母さんに思い切って相談したら、『わかりました。国籍のことはとやかく言いませんが、いまから医学部に生き直すことができませんか』と言われました(笑)」


---それでどう答えたんですか。


「いや、僕は医者になるつもりはありません、と答えました」(中略)

「でも、どうしても必要ならば、病院をつくって、それを経営することはあり得ますよ。けれど、病院経営を自分の本業にしたいとは思いません。自分の考えることをやりながら、併せて、病院の経営もやります。もし、僕が病院をやるなら、百軒ぐらいつくる自信はあります」


・肝臓病で入院(中略)

孫は結局、三年半という長期入院を余儀なくされ、当時最先端医療だった「ステロイド離脱療法」によって奇蹟的に一命をとりとめた。


・「新聞代は月四千円です。年間では五万円になる。十年で五十万円、百年で五百万円。人間は一生涯、新聞だけで五百万円払うわけです。これに雑誌や書籍やパンフレットなどを含めると、人間は活字媒体に一生涯で一人二千万円は払うでしょう。ところが、電子の世界では、一生分をはるかに超える情報量が蓄えられるデバイスが、一、二万円で手に入れられる時代が来るんです。だから現在のメディアも大きく変わらざるを得ません」


雲をつかむような空想話をしていたかと思うと、たちまちこういう現実的な話に持っていく。そこが、孫のしたたかなところである。


・「ゲームソフトとワープロのソフト。これをいかに小売店に置いてもらえるかが勝負でした。ワープロソフトでは『一太郎』を扱ったことが、ソフトバンクを飛躍させました。(中略)」(中略)


もう一つ、ソフトバンク急成長の原動力となったのは、大手家電販売店のラオックスとの取引だったという。


「孫さんが当時ラオックスの副社長だった内田(善吉、その後社長)さんに、ソフト販売の専門売り場をつくることを持ちかけたんです。その頃のコンピュータソフトは、パソコン売り場の片隅に申し訳程度に置かれていましたが、孫さんはソフト売り場の独立を内田さんに訴えたのです。(中略)


これが当時として珍しさも手伝って、大繁盛になったんです。ソフトバンクがラオックスに卸すソフトの売り上げだけでも数百億円ありましたからね。両社にとって大成功だったんです」


・孫が成功した理由をズバリ一言でいえば、きわめて選球眼にすぐれたギャンブラーだったからだといえる。正義は好機到来と見れば、いつも一気に勝負に打って出る。決裁権者は孫ひとりの完全ワンマン体制だから、決済にハンコがいくつも必要な会社はいくら歯がみしてもスピードでは絶対ソフトバンクにかなわない。


・「僕は福島に行く前日、西日本を中心に十七の県知事に直接電話をかけあって、合計三十万人分の被災者の受け入れ枠をとっていたんです。佐賀県だけで三万人。避難民が二十数万人というから、じゃあ三十万人分、屋根付き、畳付き、風呂付きで、無料で受け入れます。食事も病院も学校も、全部受け入れ準備をしますと。そのうえで福島に乗り込んだ。僕はただ理想論を言っているんじゃない」


・正義は小学四年生のときから猛勉強し始めたという。これにはわけがある。このとき、正義は三憲に自分は日本の学校の先生になるから、戸籍を日本籍に切り替えてくれ、と懇願している。(中略)


この頃の正義には在日差別に加えて、両親の不和という重圧ものしかかっていた。誰にも打ち明けられないこのプレッシャーが、孫正義の意思を強靭にしたことは想像に難くない。


・安本家の姉弟たちは、三憲にさんざん世話になりながら、欲深いものだから、自分の商売が軌道に乗ると、今度は逆に三憲の商売の邪魔をするようになった。つまり商売敵になって、三憲の商いをつぶそうとするわけです。


・人間を描く場合、その人物が絶対に見ることができない背中や内臓から描く。それが私の人物論の基本的流儀である。


●書籍『あんぽん~孫正義伝』より
佐野 眞一 著
小学館 (2012年1月初版)
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